2025年9月28日 (日)

ベーコンと目玉焼き

今朝、大学発のベーコンと目玉焼きを食べた。

ベーコンは北海道の香りが広がるオリジナルの商品。

薄く切り、フライパンにのせ、香りが逃げてしまわないように蓋をして火をつける。

じわじわ脂が溶け出し、ガラスの蓋越しに脂のスモークが広がる。

さっと蓋を上げて、すばやくベーコンをひっくり返し、すばやく蓋をする。

数秒加熱したら、火を止め、お皿にベーコンを移す。

続けてフライパンにそのままほんのちょっとオリーブオイルを追加してまんべんなく広げ、生卵を割る。

蓋をして火はつけずそのまま白身全体が白くなるまで待つ。

ちょうどいい感じに火が通った目玉焼きは、ベーコンとオリーブオイルの香りがなんともいえず、トロッとして最高。

ベーコンの食感、香り、その香りと軽く塩味のついたトロトロ目玉焼き。

野菜ジュースとの相性も抜群です。

 

 

 

2025年6月10日 (火)

「やってみましょう」とハーミシさんはいいました

「やってみましょう」とハーミシさんはいいました。に線を引いてください、と言われ、当時のぼくは、国語の教科書のその文章の部分に線を引きました。

最初からやりもしないでできないというのではなく、とにかくやってみることが大事だとその時教えられたことを強烈に覚えています。

それは、その後の人生に大きな影響を与えました。半世紀を経た今までの人生で自分自身はもちろん、誰かと何かに挑戦するとき、いつでもこの言葉を思い浮かべてきました。あきらめない強い力になってきました。

残念なことに、この物語があった国語の教科書ははるか昔に実家においてきたし、実家でもとっくに使わなくなった教科書は処分してしまったので、この物語の作者もタイトルもわからないままだったのですが、うっすらとこの線を引くこととそのことの意味を教えてくれたのが5,6年生の時の担任の声だったように記憶していたので、ウェブで当時の教科書の出版社である光村図書のアーカイブで検索してみたら、ありました。寺村輝夫 ケニアの旅。これにちがいありません。あの話はたしかにケニアの話だったし、5年生の教科書の下巻だし。光村図書のウェブサイトから過去の教科書が閲覧できる場所もわかったし、近いうちにこの物語を再度読みに出かけてみたいと思います。東京なのでちょっと遠いですけど。

2025年3月14日 (金)

地球上の生物の主役はやっぱり植物なんだとおもう

 大根の切れ端をヨーグルトのプラスチック蓋に水をちょっと入れて、つけておいてみたら、葉っぱが出てきた。

そのまま毎日水交換してながめていたらどんどんのびてくる。

同時に根元の大根の端切れが小さくなってきているように見えたので、ホームセンターで買ってきた土をいれてみた。

毎日水をやっているとニョキニョキ元気に伸びてくる。

動いていないようだけど、伸びるという動きがあるのがわかる。

でも、とりあえず移動はしない。そこにいて、その環境に馴染めば伸びる。ただそれだけ。

この究極な動きこそ、生物の原点なのだろう。余計なことは考えず、ただ生きて成長する。

動物より賢いかもしれない。

細菌や真菌(きのこ)も植物のなかま。

そこに気がつくと、地球上の環境に最適化しているのは植物なんだろうなと、目の前の大根の切れ端から伸びた葉っぱを見ながらふと思った。

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2025年2月23日 (日)

無いことは発明の源

モノによっては それらが無くなることを恐れ 無闇に溜め込むといった 人の心理が働いたりもする

なんでもつねにあると あることがあたりまえになって あることのよろこびや感謝を感じられなくなる

また あることがあたりまえになっていると、無くなるとたいてい困ることになる

それはモノであっても モノ以外であっても同様である

一方 必要なモノやモノ以外がどうしようもないくらい足りないのも困ることがある

最初から無いモノやモノ以外には困ることすらない

ただ 足りないことや無いことは それらを満たすためのアイデアを発明するきっかけになる

誰かの何かを満たすための発明は他の人にとっても有益なこともあれば そうでないこともある

それらの発明は できるだけ他の人が困ることにしないような方法でなければならない

このことは 人同士がお互いに安心して生活していくために最も大事なポイントだと思う

 

いずれにせよ 足りないこと、無いことこそ 発明の源なのだ

 

2025年2月 1日 (土)

子供の頃から覚えている大人の今も心に残る歌

学生時代には交響楽団でバイオリンを弾いてもっぱらそういった音楽ばかりに触れていた私。社会に出てからはなぜかあれだけ熱中した音楽たちよりも子供の頃にアニメから耳に入っていた歌の方が心の励ましになっている。仕事をしているときに頭の中で流れる歌は、ど根性ガエルのオープニングとエンディング、ちょっと疲れた時、元祖天才バカボンのオープニングとエンディング。仕事のペースが乗っている時は、はじめ人間ギャートルズ。そのほか、色々ポッと頭の中で流れ始めるのはどれもこれも子供時代のアニメの曲ばかり。そして、最近、やたら流れるのがみつばちマーヤのエンディング「おやすみマーヤ」。

ひたすら走り続けた人生、少し息切れしてきているのかな。でも「素晴らしい明日まで」少しお休みしなければいけないのかも。

さて、そんなこと言ってられないんだった。原稿修正に取り掛かろう。

2024年12月26日 (木)

子どもの頃の記憶

ぼくは、今でも子供の頃のことを結構覚えている。今日は、半世紀前、幼稚園のころの思い出の場所をgoogle earthで散歩してみた。

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これは、幼稚園の帰り道、がまんできなくなっておしっこを漏らしてしまったときにみていた景色。幼児の目線だからもう少し下からのアングルだけどまさにこの景色。この景色をみながら絶望したのを今でもはっきり覚えてる。股間がびしょぬれになって泣きべそをかきながら家に帰ったのだけど、ちょうどうちに親がいなくて近所のおばさんに着替えさせてもらった。実は、その時、恥ずかしいという思いはあったものの、そんなに泣きたい感じではなくて、若干ウソ泣きっぽかったのも覚えてる。涙がほとんど出てなかったからばれたかななんて思いながら。そんなちょっと冷めた幼児だった。

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多分ここだと思うんだけど、右手に渋柿の木があったと思う。左の個人宅にある柿は甘柿で、渋柿の木のところで遊んでいたら、そこの家のおじさんから一度甘い柿を1個もらったことがあったと思う。昔は割と近所の子供と大人はどこでも仲良しだったな。なんかいつもいろんなところでかわいがってもらっていた気がする。自分は不愛想な幼児だったんだけどね。それにしても、ここらへんは今でも景色がほとんど変わっていなくてなんかうれしい。この景色をみたら口の中が渋柿で渋々になったあの瞬間を思い出したよ。

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ここは、キセルガイが壁にたくさんへばりついていた坂だとおもうのだけど、ちょっと景色はかわったかな。左の石垣みたいなところにキセルガイがたくさん貼りついていてよく取りに来ていた。右側は木が生えている草むらだったと思う。

まだまだ思い出の場所はたくさんあるけど、この辺はとにかく道が狭く、google earthの写真も途切れているところが多いので残念ながらgoogle散歩で歩ける場所は限られる。いつかまた、この変わらない景色の街を歩いてみたい。なんとなく転勤族で故郷みたいな場所がない僕だけど、やっぱり幼少期や少年期を過ごした場所がなんとなく故郷って感じる。気が向いたらまたgoogleで思い出の場所を散歩してみようと思う。

2024年9月 3日 (火)

ブラウザの表示画面より大きなポップアップの次の操作ボタンが出てこなくて困るときの対処

最近インターネットはいろいろ便利になってきた半面、操作が多様化してその進化についていけず、しばしば困惑することがある。

インターネットネイティブと呼ばれるような年中インターネットの中で生活している人々にはなんでもないことでも、ネイティブではない人にはよくわからない現象はわりとあるわけで、とくにプラットフォーム提供をしているなどのサプライヤは自分目線だけでいろいろサービスを展開しまくることでユーザーの不便やときに生活上のリスクにもつながっていることは意識しておかなければならない。

そんななかで、よく困惑する人をみかけるのが、ブラウザの表示画面より大きなポップアップで操作を要求する画面だ。

小さな画面のノートパソコンなどでは、その画面より大きなポップアップ操作画面が表示されると、その表示画面を操作することができずに困ることがある。つまり、操作ボタンが大きさが固定されたポップアップ表示の下の方にあって、画面の範囲を超えた下の方に隠れてしまっているのだ。

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たとえば、これは、MicrosoftOutlookでしばしば表示される画面。これがでてくると、右上に×もないし、画面上で何も操作できなくなって困る。

こういった場合、キーボードの「Ctrl」キーを押しながら、マウスのスクロールボタンを前後してみるといい。画面表示の大きさが変えられるので、小さく表示すれば、このポップアップの全体が見えるようになって、下に隠れている次の操作ボタンがみえるようになる。

操作ボタンが出てくれば、たとえば、「キャンセル」とか「次へ」とかポップアップに表示された内容に応じて操作を進めることでこのポップアップは消えるわけだ。

ブラウザの表示の大きさをかえられるということを知っておくと、普段のインターネット閲覧でも何かと便利なので、ぜひこの操作は覚えておいてほしい。

 

2024年7月17日 (水)

そば好きの理由

猛暑の本州への今年の夏のお中元は、新得そばを贈った。そのお礼が届いて読んでいると、自分もそばが無性に食べたくなった。元来そば好きなのではあるが、ここのところなぜかそばはご無沙汰になっていた。さっそく、常備の乾そばを茹でてみる。茹でている間にネギを切る。薬味のネギは薄ければ薄いほど香りが立ってうまい。よく切れる包丁で厚さ1mm程度以下に切る。茹で上がったそばの湯を切り、出汁のきいたそばつゆと薬味のネギで食べると心底リラックスしたいい気分になれる。私の場合、冷たくても暑くても生卵をトッピングする。子供のころからそばといえば月見そば。最初は卵をからめずお月見しながらそばを食べる。半分くらい食べたら月を崩してそばとからめて食べる。卵はできるだけ崩さずに少しずつからめるのがなんともたまらない。最後はそばつゆとできればそば湯で薄めていただく。日本に生まれてそばのおいしさを知っていることの幸せを実感する。

さて、そば好きの自分であるが、なぜそばが好きなんだろうとちょっと考えてみた。はるか昔の幼少時代から子供時代の記憶をたどると、日常のおやつの定番に「そばぼうろ」というお菓子があった。そのお菓子はほんとに日常的に口にしていた味だった。風味がよく、程よい甘さと歯ざわり。気がつけば大好物のお菓子になっていた。この「そばぼうろ」とそばはまさに同じ香りと味。そばが本格的に身近な食べ物になったのは、中学生の頃。予備校の帰りにほぼ必ず立ち寄っていた千葉駅の「万葉そば」。いつも注文するのは「月見そば(たまごそば)」。帰りの電車に乗る前にそばをサラッと食べるのが日課になっていた(もちろん家に帰ったら夕食も食べる)。

 

あれから何十年も経った今も、あいかわらず月見そばがファーストチョイス。うどんの場合はいろんなものをトッピングしたくなるけど、そばの場合は、生卵とネギ。あと、海苔も好きなのであったら海苔ものせる。生卵とネギがあうといえば、そばと甲乙つけがたいくらい納豆も好きだな。納豆も生卵とネギを入れるのが好き。

 

あれ、とすれば、僕はそばというより生卵とネギが好きなのではないか。そして、そばはそれらとの相性が抜群だから好きなのかも。なんにせよ、そばは大好物なのには違いない。また、地方のおいしい蕎麦屋さんを訪ねてみたい。

2024年3月 4日 (月)

競争と協奏(1)

半世紀余りを生きてきて、これまで経験してきた社会でのさまざまな出来事をちょっとだけ振り返ってみると、タイトルにあげた2つの単語がふと頭によぎった。

思えば、社会生活にはいつも競争と協奏が混在していた。

どちらも文字の組み合わせが意味するところではある。

競争は、自分と他人との競い、争い。

協奏は、自分と他人とが協力して奏でる。

これらはどちらか一方だけだとうまく成り立たない。またどちらか一方に偏りすぎてもバランスを崩す。

 

高校から大学までの9年間の学生生活は、意図せず始めた音楽に没頭していた。

前の高校で水球を始めたこともあって、転校先の高校でも水泳をやりたかったわけだけど、まわりの友人に「ちょっと見学だけでも来なよ。」と勧誘されて、放課後、半ば強制的に管弦楽部へ。

それまで遠くからしか見たことが無かったバイオリンをちょっと強面の先生から手渡され、これはまた強面の先輩から、「はい、じゃあ弾いてみて」との号令で弾くことに。

恐る恐るその場で教えられた通り楽器を左の肩の上に構えて顎で挟んで固定し、右手に弓をこれもまた教え通りに持って弦の上を走らせてみる。

どこかでみたようにギーッと鳴るのかと思ったら、意外と澄んだきれいな音色が聴こえた。

「おー、いいね。じゃ、バイオリンで。」

というようなことを先生と先輩から言われて入部が自分の意思は反映されず、決まった。

この意図しない音楽との関わりの始まりは、その後の私の人生に大きく影響することになった。

 

 

2023年2月18日 (土)

病原体と人が呼ぶ生物について

「病原体」と人が呼ぶ生物。

それらは人が一方的にそう呼んでいるだけの対象であって、主体は必ずしも人に対して病気をもたらすつもりなんて、おそらくない。

粛々と自らの生命活動を営んでいるだけ、と今のところみえる。いや、ひょっとすると、神経伝達のような機構を備え、意図をもって活動している可能性がないという証明は難しいので、今のところ、そういった様子は見当たらない。少なくとも、人の「病原体」とレッテルを貼られている種類に関しては。ただ、たとえば、バクテリアファージ、性線毛、などといった個体間の「情報」の移動手段を備えていることが、神経伝達のような機構の代わりに存在しているのだと捉えれば、もしかすると、それらに意思の形成や伝達の機能があるかもしれない。あくまで空想の話である。

地球上では、人の見方で、単純な構造をもち、単純な増殖パターンであるものほど、本能的かつシステマチックに存在しているようにみえる。

 

 

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